これからはじめるCFD



先生じゃなくて。


放課後の社会科準備室。
向かい合った二つの机に、それぞれ男と女が座っている。

一方は、ダークグレーのスーツを着て、眼鏡をかけた男。
寝癖なのかセットしているのかわからない無造作ヘアが、なんだか頼りなさ気な印象を与える。
もう一方は紺色のブレザーを着て、ワインレッドのネクタイを締めた女。
肩までの茶色いストレートヘアに、強気な猫っぽい目がとってもキツそうな性格に見せている。
「ねえー先生ってばー。」
「んー?」
「ちょっとぉ〜!」
「はーいー?」
二人の間では、さっきからずっとこんなやり取りが繰り返されている。

しきりに話しかけているのは、佐倉梨佳。高校3年生。
適当な返事を返しているのは、佐倉隼人。24歳、高校の社会科教師。世界史担当。
この二人、教師と生徒の間柄であり、従兄妹でもある。
そして、恋人同士。
とっても複雑な関係なのだ。

「隼人くーん!聞いてる〜?」
「聞いてるよ〜。今、テストの採点中だって言っただろう〜?」
隼人は答案用紙に赤ペンをしきりに走らせている。
「知ってるけど暇なの〜!」
「俺は暇じゃないんだよー。もう少し待っててくれよ。」
「もう待てない!」
隼人の作業をただ見ていただけの梨佳は我慢の限界を超えたようだった。
「梨佳ー。先週出したローマ帝国についての課題レポートは終わったのかい?」
「……。」
「全く手ぇ付けてないね?」
無言は肯定の証。しかも、梨佳は微妙に苦笑いを浮かべている。
隼人はそれを見逃さなかった。

「隼人くーん!折角久しぶりに一緒に居るのにー!!」
「それはわかってるけど、仕事があるんだからー。」
「私と仕事とどちが大事なの?!」
「仕事。」
隼人はきっぱりと言い放った。彼は昔からこういう人間だった。
優しそうに見えて、さらっときつい一言を放つ。
幼い頃からずっと一緒に居た梨佳は、どういう返事が返ってくるのかは容易に想像はできたが、
やっぱりちょこっとグサッとくる。

隼人の仕事と梨佳の部活のおかげで、しばらくすれ違い生活が続いていた二人。
梨佳は陸上部に所属しており、つい先週引退を向かえた。
そのおかげで、少しは二人で居られる時間が増えるかと思えば、
3年生、つまりは受験生を担当している隼人の仕事が増えてきたのだ。
しかも、今日まで中間テストがあって、全く会う時間がなかった。
少しでも一緒に居たい梨佳は隼人の隠れ家的な社会科準備室に入り浸っているわけである。
ありがたいことに、もう1人の定年間近の社会科教諭・佐藤平一(62)はさっさと自宅へ帰った。
こうして二人だけの時間ができたのである。

「むむむ。じゃぁ、ソファで寝てるから、終わったら起こしてよー。」
「はいはい。ちゃんとブランケット掛けて寝るんだよ。」
「はーい。」
ようやく、梨佳は隼人の仕事が終わるまで待つ気になったようだ。
梨佳はソファの肘掛部分に置いてある、赤いチェックのブランケットを広げて、その中に潜り込んだ。
彼女専用のブランケットだ。
隼人は他の教諭に誰のかと尋ねられてもても、普通に『梨佳のです。』と答える。
尋ねた教諭も『ははは、なるほどね。仲がいいですね。』で終わり。
もう、校内では仲良し兄妹として認識されている。

こういう時に従兄妹という立場は便利だ。
一緒に帰ろうと、お互いの家に遊びに行こうと、
こうして準備室に入り浸ろうと、何を目撃されても慌てることはない。
何故なら、仲の良い従兄妹同士だから。
男と女としての行為をする時だけ注意していれば、外部にバレることはない。

それでも教師と生徒という立場は、世間体を考えると難しい。
もし学校側に二人の関係がバレたとしたら、間違いなく隼人はクビになるだろう。
隼人と梨佳が付き合い始めてから、もうすぐ一年が経とうとしているが、
意外とうっかり者の二人は、注意を怠り、以前に何度か、危機的状況に陥ったことがあった。

今年の春。
準備室でちょっと良い感じな空気になった時に、お互いに背中に腕を回して抱き合っていた。
すると、突然ガチャッとドアが開き、佐藤教諭に目撃されてしまったのだ。
佐藤教諭は目をクリクリさせて、驚いている。
「隼人くん!ギブギブッ!!」
梨佳は咄嗟にプロレスごっこをしていたフリをした。
かなり無理な言い訳だったが、なんとかそれで乗りきった。
「ははは、仲が良いですねぇ〜。」と。

はたまた今年の夏。
学園祭の後夜祭では、花火が打ち上げられた。
打ち上げ花火鑑賞といえば、恋人達の祭典の一つ。
隼人と梨佳は、誰もいない教室でロマンチックに鑑賞していた。
またしても良い感じの空気になったので、とりあえずちゅーでもしておこうかと思ったら、
ドアがガララッと開き、佐藤教諭登場。1度ならず2度までもこの人に目撃されてしまった。
途中までギリギリのモーションに入っていた二人は相当焦った。
しかし、隼人は梨佳の下瞼をベーっと引っ張って、
「梨佳〜、ものもらいできてるぞ〜?」
っと苦しい言い訳をかました。
かなりのC級戦略であるが、そこで騙されるのが佐藤教諭。
「佐倉くん、明日は眼科に行って見てもらいなさいね。」
それだけ言い残して去っていった。
一体この人は何をしに来たのだろう。

「ん〜。肩こったなぁ。」
隼人は赤ペンを机の上に放り投げ、頭の上で伸びをした。
机の上には、未採点答案がまだ数枚残っている。
論述式の問題が多かったため、相当苦労しているのだ。
「お?次は梨佳の答案だね。」
答案の一番上に、『3年1組36番 佐倉梨佳』という文字があった。
「うん、よく出来てるね。」
隼人は呟きながら、赤ペンを滑らせていった。
86点。これまでの点数から考えると、相当な高得点だ。
梨佳はもともと世界史が得意だったらしい。

隼人がこの学校に赴任して、梨佳のクラスの担当になって初めてのテストの時、
テスト問題横流し疑惑が浮上した。
梨佳が世界史のテストで満点を叩き出したからだ。
やはり親族が教師をしていると、そう疑いたくなるのが人情なのか?
まあその疑惑も、速攻で晴れた。
隼人の作ったテスト問題が出来あがったのが、当日の朝だったこと。
これでは横流ししている暇はないということで解決。
こうして、普通の先生と生徒になることができたのである。
ただ一つ問題があるとすれば、梨佳が『歩く歴史年表』と密かに呼ばれることになったからだろうか。

「終わったぁ〜……。目疲れたなあ。」
採点開始からだいぶ時間が経っていた。
太陽が南中高度に達した時から採点を開始し、今は窓の外は日がとっぷりと暮れている。
「梨佳も長いこと放置しちゃったし。」
ソファに目をやると、梨佳のおなかの当たりが規則正しく上下していた。
ここしばらく、テストのためろくに睡眠を取っていなかったのだろう。
とても気持ちよさそうに眠っている。
テスト終了後にまっすぐ家に帰って、昼寝でもすればよかったのだろうが、
眠気を抑えてでも会いに来てくれた恋人を放置して、隼人は罪悪感に駆られた。
「起こした方がいいのかなぁ?でも、起こさなかったら怒るだろうなあ〜。」
起こしても起こさなくても、どっちにしろ申し訳なくなるのは確かだろう。

「梨佳ー、終わったよー。どうする?」
やっぱり起こすことにしたらしい。
「ん〜。」
唸っただけで、結局梨佳は起きなかった。
「仕方ないなぁ。」
隼人は頭をポリポリかいて悩んだ後、梨佳の荷物をまとめ始めた。
そして梨佳をおぶって、右手に自分の鞄、左手に梨佳の鞄を持って準備室を出た。
扉をあける時は相当苦労したが。

やってきたのは駐車場。幸運にもここへ来るまでに誰にも会わなかった。
隼人は自分の車の前まで来ると、すでに右手に持っていたキーでドアを開けて、
助手席に梨佳を乗せた。梨佳は未だに眠ったままだ。相当寝不足だったのだろう。

「ふう。」
自分も運転席に乗り込んで、一息ついた。
「じゃあ帰ろうか。」



+      +      +



梨佳が目を覚ましたのは次の日の朝だった。
「隼人くん起こしてくれなかった!」
梨佳はプリプリして、時間を確認するためパカッと携帯を開くと、新着メールが2件。

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送信者:はやとくん
件名:おはよう。
本文:昨日はごめんな。
   一応起こしたんだけど、
   梨佳が起きなかったんだぞ(`へ´)
   無理に起こすのも可哀相な気がしたしね。
   テスト、頑張ったな。
   返却は次の授業でするから、
   楽しみにしててo(^-^)o

   それで、昨日は悪いことしたし、
   テスト頑張った御褒美に、
   次の休みにどっか行こうな。
   どこ行きたいか考えておけよ。

        ―― end ――
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「きゃー!隼人くん!!」
嬉しさが抑えられなくなった梨佳は、早速隼人に電話をした。
『もーしもーし?』
隼人の口調はいつにも増してスローだった。まさに寝起きだ。
「隼人くん、あのメール本当?」
『あーおはようー。梨佳、元気だね。』
「どっか連れていってくれるって、本当?!」
『うん、梨佳の行きたい所に連れていってあげるよ。』
「じゃあ、考えておくね!」
その約束だけで梨佳は気分が薔薇色だった。
恋する乙女はちょっとしたことでさえも嬉しくなるものだ。

『ねぇ、メール2通とも見た?』
そういえば、新着メールは2件だった。両方とも隼人からだったのだろう。
しかし1通目で歓喜の余り電話をした梨佳は当然まだ見ていない。
「まだ。後で見るね!」
『うん、じゃ後で学校でね。遅刻するなよ。』
「それ、寝起きの隼人くんにそのまま返すよ。」
『あはは、それじゃあね。』
「うん!」

電話を切った後、梨佳はしばらく携帯を見つめて考えた。
「もう1通ってなんだろう……。もしかして、愛の囁き?」
淡い期待をしつつ、メールを開いた。

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送信者:はやとくん
件名:それからー
本文:ローマ帝国についての課題レポートだけど、
   休みまでに終わってなかったら、
   約束取り消しねd(≧∀≦)キャッ

          ―― end ――
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梨佳は眩暈を覚えた。
「『d(≧∀≦)キャッ』じゃないでしょっ?!え、マジで?絶対終わらせる!『歩く歴史年表』の名に賭けて絶対終わらせる!!」
梨佳の薔薇色オーラは一瞬にして戦闘モードメラメラオーラに切り替わった。



いつの時代も先生と生徒の恋に障壁はつきものなのである。


――――――――― 頑張レ、恋スル乙女